大泉博子の

徒然草

DAILY
日々雑感
  •  家父長制の下で「男は一家の大黒柱」「女は自由がなく子供を産む道具」と叫んでフェミニストの運動がかれこれ半世紀以上も続いた。アメリカではベティ・フリーダンの「女らしさの神話」刊行(1963年)、日本では、中ピ連(ピル解禁の女性解放連合)結成の1972年を始まりと仮定すれば、だが。

     日本では、86年施行の雇用機会均等法と90年代の男女共同参画の普及で、少なくとも女性の社会進出は相当進んだ。しかし、一貫してフェミニスト運動は文化的・慣習的な家父長制は残存し女性差別はそこかしこに観られると主張する。そうかもしれない。しかし、そうでない現象もある。50歳時未婚率3割の男性の存在と少子化である。

     フェミニスト運動と少子化とは直接関係するわけではないが、フェミニスト運動が敵対してきた「家父長的」類の男性が極端に減ることにより、間接的に少子化が進んでいるのは事実ではないか。現在、夫婦と子供の世帯の割合は全世帯の24%(2024)であり、世間的には、少数エリート家族と評される。夫婦に子育てするだけの所得があり、家族経営が成功しているからである。もし家父長的文化が根付いているならば、大黒柱になりえない男性は結婚を忌避するであろうし、情報過多で面倒になった女性を妻に迎える余裕のない男性は別の生き方を選ぶであろう。家の存続をもしまだ考える男性がいるならば、ロマンスを求める現代女性に興味を抱かれることもないだろう。

     男性の側からみれば、昔ながらの「家父長的」結婚など望める人はエリートでしかなく、結婚の意味を新たに作り上げなければ、フェミニストに言われるまでもなく「ハイハイ、私は家父長的志向がないので、結婚は遠慮させてください」となってしまうのが、今日の少子化の真の原因ではないのか。かつて、兵隊になるために男は強くなければならぬから「男の子は泣くな」と教えられ、戦後の平和国家では、モーレツ社員になるため男は強くなくてはならぬと強壮剤を飲みながら仕事をした時代は終わった。強くなくていい、そんなに稼がなくていい男たちに、結婚や子供に興味を持ってもらうための新たな結婚の意味を考えるのが、今日の少子化政策に欠けている。

    •  高市・トランプ会談は「成功」と報道されている。日本のマスコミはいずれも同じような報道内容だ。「少なくとも今回はホルムズ海峡に軍艦を派遣しろ」は避けられた。だから、成功だ、と。時間が経って、マイノリティの意見が細々と出てきたり、ユーチューブなどで新たな分析が出てきたりして、マスコミで報道されなかった細部に驚くべきことが発見された。

       一つは、首領同士が対面してハグすること。高市総理が仕掛けたが、日本の習慣ではないし、対面の儀礼としては度が過ぎたインフォーマルであり、男が女に仕掛けたらセクハラともとらえかねない。

       二つ目は、会談に先立ち、トランプがホワイトハウスを案内する場面で、歴代の大統領の額が並ぶ中で、ある額の前で高市総理が大笑いしたことである。日本では報道されなかったが、その額は、バイデン大統領のパロディであった。認知症で何でも署名してしまう自動サインペンを表したものだった。それを掲げたトランプの資質を疑うが、それに同調して笑うのは、アメリカ国民に対する失礼な行為であろう。少なくともアメリカ人全員が共和党員ではない。

       三つ目は、高市総理は「日本は、法律的に出来ることと出来ないことがあるとトランプ大統領にきっちり言った」と日本人記者会見で話したが、実際の言葉は「日本はできることをやります」だった。ニュアンスがあまりにも異なる。

       四つ目は、ロン・ヤス、ドナルド・シンゾーに倣って、ファーストネームで呼び合うことに憧れた高市総理が夕食前のスピーチで盛んに「ドナルドと私」を繰り返したが、トランプ大統領の方は、高市総理を「総理大臣」で通し、名前は一度も呼ばなかった。分かりにくい日本の名前を覚えられなかったせいもあろうが、「女から攻められた経験のないmale chauvinist」のトランプは高市総理に親しみを感じてはいなかった。また、トランプは高市総理を「This woman」と呼び、高貴な女性に対しては「This lady」であるはずだが敬意が払われていない。

       これらのことは、ホルムズ海峡に軍艦を出さないで済んだ(今のところ)のだから、全て帳消しとするのが日本のマスコミの姿勢だ。日本国中で、終戦後日本で最も人気のあったマッカーサー元帥への思慕が消えていないらしい。安倍晋三の継承者を自認する高市総理はマッカーサーコンプレックスを覆そうとした安倍元総理の「戦後レジームの見直し」と真逆の姿勢であることを指摘したい。

      •  雪や氷の上を滑る冬季オリンピックは、年寄りにとっては別世界の出来事である。夏季オリンピックの走る、泳ぐくらいならばまだ多少はできても、冬のスポーツは命を奪われる。その技と情熱をかけたオリンピアンが、ミラノオリンピックで開陳したのは、スポーツをやる、生きる、の意味である。

         数々のドラマの中でも、日本中を熱狂させたのは、ショートで失敗し、フリーで逆転金メダルを勝ち取ったリクリュウ・ペアの精神力であろう。フリーの前に、失敗で落ち込んだリュウにリクは「今日はあなたのために滑る」と言った。その意味は、金メダルのためでもなく、日本の栄誉のためでもない、大切な人のために滑るのだということ。

         五木寛之が最新刊「大河の一滴 最終章」に書いている。人は「誰かのために生きるのだ」と。国民学校で教え込まれた大東亜共栄圏のため、一等国のため、日本のためではない。教え込まれたことは敗戦をきっかけに雲散霧消し、アメリカが持ち込んだデモクラシーに代わった。一瞬のことである。五木自身は「平壌から引き揚げの途中で夭折した母親のために」生きてきたと言う。母が一度見たいと言っていた東京に来た。人生長らく病院に行けなかったのは、薬も医者もなくして死んだ母を思うと病院に行くという贅沢に抵抗があったからだ。

         リクとリュウはプロフェッショナルに大切な者同士だが、一般的には誰かのために生きる対象は、家族であろう。就中、子供であるはずだ。神代の昔から連綿と遺伝子を継いできた我が子のために生きるのは、生物学的にも正しい。格差社会と戦争不安と不確実な未来に生きる我々が唯一見出せる「生きる意味」は「子々孫々のために生きる」のではないのか。しかし、誰かのためにが「子供のために」「孫のために」と言えば、鼻で笑われるような社会だ。「もっと気楽に自分のために生きるべき」「子供にカネのかかる社会で子供はいらない」。

         高市政権は「強い日本」「経済成長」「アメリカとの絆」を強調するが、少子政策は入っていない。抽象的な目標のためには、いつか崩落する日が来る。戦前の日本が80年前に崩落したがごとくに。「子供のために」「孫のために」が入っていない政策群は、やがて行き詰るのが必至だ。年寄りがミラノオリンピックを見ながら出した結論だ。

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