日々雑感

年寄りにとってのオリンピック

 雪や氷の上を滑る冬季オリンピックは、年寄りにとっては別世界の出来事である。夏季オリンピックの走る、泳ぐくらいならばまだ多少はできても、冬のスポーツは命を奪われる。その技と情熱をかけたオリンピアンが、ミラノオリンピックで開陳したのは、スポーツをやる、生きる、の意味である。

 数々のドラマの中でも、日本中を熱狂させたのは、ショートで失敗し、フリーで逆転金メダルを勝ち取ったリクリュウ・ペアの精神力であろう。フリーの前に、失敗で落ち込んだリュウにリクは「今日はあなたのために滑る」と言った。その意味は、金メダルのためでもなく、日本の栄誉のためでもない、大切な人のために滑るのだということ。

 五木寛之が最新刊「大河の一滴 最終章」に書いている。人は「誰かのために生きるのだ」と。国民学校で教え込まれた大東亜共栄圏のため、一等国のため、日本のためではない。教え込まれたことは敗戦をきっかけに雲散霧消し、アメリカが持ち込んだデモクラシーに代わった。一瞬のことである。五木自身は「平壌から引き揚げの途中で夭折した母親のために」生きてきたと言う。母が一度見たいと言っていた東京に来た。人生長らく病院に行けなかったのは、薬も医者もなくして死んだ母を思うと病院に行くという贅沢に抵抗があったからだ。

 リクとリュウはプロフェッショナルに大切な者同士だが、一般的には誰かのために生きる対象は、家族であろう。就中、子供であるはずだ。神代の昔から連綿と遺伝子を継いできた我が子のために生きるのは、生物学的にも正しい。格差社会と戦争不安と不確実な未来に生きる我々が唯一見出せる「生きる意味」は「子々孫々のために生きる」のではないのか。しかし、誰かのためにが「子供のために」「孫のために」と言えば、鼻で笑われるような社会だ。「もっと気楽に自分のために生きるべき」「子供にカネのかかる社会で子供はいらない」。

 高市政権は「強い日本」「経済成長」「アメリカとの絆」を強調するが、少子政策は入っていない。抽象的な目標のためには、いつか崩落する日が来る。戦前の日本が80年前に崩落したがごとくに。「子供のために」「孫のために」が入っていない政策群は、やがて行き詰るのが必至だ。年寄りがミラノオリンピックを見ながら出した結論だ。

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