「西洋事情」離れ
幕末、福沢諭吉が書いた「西洋事情」は今風に言えばベストセラーだった。欧米文化を見聞きしたリアリティが書かれている。明治以降、お雇い外国人によって学問が、鹿鳴館時代には西洋文化が、西洋の列強に仲間入りしたい日本の治世にとって必須になった。
時代下って戦後のアメリカ統治支配によって、制度や文化は著しくアメリカ流になった。その戦後の第二波とも言えるのが、中曽根レーガン時代に始まり小泉政権でピークを迎えたアメリカによる日本支配の強要だ。経済社会はアメリカ流を以て最も近代的とされ、市場原理が制度に仕組まれた。金融ビッグバン然り、外資の参入然り、果ては、固有であるべき社会保障の分野も、福祉の措置制度(行政処分)から契約制度への変換に至った。
アメリカは世界一強の立場が危うくなると、トランプ・バイデン両大統領共に安全保障における日本の役割強化を望むようになった。安倍首相はトランプによく応え、日米の集団安全保障を実現する道を開き、岸田首相は、日本の防衛費二倍を目指す。これらはあたかも日本が自発的に必要性を認めて施政に持ち込まれたようになっている。
開き直れば、それは時々の政府の方針だから、いいと言えばいい。ただ、制度の背後にある独自の価値と文化は日本国民をして戸惑わせる結果をまねく。ロシア・ウクライナ戦争は民主主義陣営対専制主義陣営と報道されるが、ならば、なぜASEANもアフリカもイスラム圏も民主主義に与しないのか。「西洋」から来た民主主義には昨今、疑問が付されている。
前回この欄で紹介したジェンダーやLGBTQもWeirdつまり「西洋」から来たものだが、日本ではジェンダーギャップは治まらず、LGBTQは西洋のような理解は進まない。それが先進性を表す指標だと言われても、底辺を流れる価値や文化が邪魔をするのだ。
前提が長くなったが、今回の執筆の意図は、WEBでオープンアクセスできる赤林朗東大大学院教授の「Bioethics across the globe」(世界をめぐる生命倫理学)を紹介したかったのである。筆者が近年読んだ本の中でも最も感動した本の一つである。先生は、人間の尊厳と人権をベースにした欧米のモラル(特にそれをリードするアメリカのモラル)は必ずしも日本特有のモラルに当てはまらないと説く。
97年に議員立法でできた臓器移植法は今日に至っても欧米のような移植に関する医学的医療的発展を望めない。臓器移植やターミナルケアの決定において、日本は家族アプローチをとる国であり、アメリカでは個人が決める孫、親友、医療者など第一人者アプローチが望まれる。日本では個人の自主性が低く、家族関係が良くない場合には判断に齟齬が起きる。
赤林先生は川端康成を引用して日本人の曖昧さを指摘し、受精卵については「生命」であるかどうかが欧米での問題であるのに対し、日本は「生命の芽」という表現で、議論をそらしたと言う。同時に、アメリカでは大問題であり政治も左右する中絶については、日本は受精卵の扱いよりも淡白である。この曖昧さは日本独自のものである。
医療の類似で多くの議論も先生は提示し、かつて白鵬が行司の差配に抗議した例を引いて、テニスなど欧米のスポーツでは審判に抗議できるのに、「国技」の文化はそれを許さなかったことを示した。ドナルド・キーンは日本人の従順さに警告し「もっと政府を批判せよ」と叫び、「五体満足」に大きな価値を置いて障害やLGBTQなどに想像たくましくする発想がないことを先生は指摘する。
日本人は村社会を作っているわけだが、その価値と文化は変りようがない。いいとか悪いとかいう問題ではなく、世界のスタンダード、とりわけ生命倫理の基準を考える時には、日本文化を包摂する必要があり、むやみの「西洋事情」採択に警鐘を鳴らすのが、先生の著作である。
日本はガラパゴス島であり、結果平等の国でもあり、これからの医療の中心になると言われるプレシジョンメディシン(精密医療)では、認可されていない医薬品の使用も含め、患者の自主性を求められる時に、対応できない社会なのではないか。赤林先生は危惧するのではなく、政治家の手におえない生命倫理を社会で議論すべきと訴えておられる。
「西洋事情」は、日本だけでなく世界のあらゆるところで離れていく人々を見かける時代の到来である。