日々雑感

生命倫理と政治

 赤林朗東大教授の退官記念最終講義を聴く機会を得た。赤林先生は、2020年、Bioethics Across the Grobeと題する生命倫理の著作をSpringer Nature出版からオープンアクセスでweb上出版されている。既に世界中で2万件以上のアクセスがあると言う。
 筆者はこの著作にいたく感銘を受けたが、赤林先生が英語で書かれたのは、世界中の研究者や施政者等に、生命倫理は一筋縄ではではない、背後の文化に左右されることを伝えようとしたのである。生命倫理も欧米文化の一翼を担うが、欧米文化の一部とみなされる日本において必ずしも欧米と同一軌道にないことを明確にしている。
 先生自身が、欧米のように早く臓器移植が当たり前になってほしいと考えながら、赤ちゃんに自分の肝臓を移植した母親の死亡に動揺したこと、米国のホスピス医が、患者に真実を伝えることを旨としながら、24時間後に死ぬことを伝えられなかった事実を明らかにしながら、人間の感情は根底では共通したものがあり、しかし、社会的な制度に移行した場合には大きな違いが表れることを語るエピソードである。
 個人情報であることから公表されていないが、死者の意思が臓器移植賛成でも家族によって断られたケースは日本において非常に多いという。先生はそのことを、日本は、生と死の境界があいまいな死生観あるいは宗教的観念を持っているからだと説明する。臓器移植法が立法されるときでも「脳死は完全は死ではない」と結論された。ならば、なぜ死んでもいない者の臓器を移植できるのかという疑問がわく。
 脳死を死と定義し、死後は神の元に帰るキリスト教社会では、生と死は明快に境界がある。神の元に渡った魂の亡骸は、人間社会に役立ててよいのだ。儒教、仏教、神道の入り混じった日本では、絶対神による生と死の境界が引かれていなかった。曖昧さの日本は、生命倫理に立ちはだかった。それは、大江健三郎が川端康成の「曖昧さの美学」を批判し、欧米的合理性を追求すべきと論じたことにつながる、と赤林先生は言う。
 同様に、欧米では、受精卵は既に「生命」であり、だからこそ、アメリカの大統領選挙でも中絶賛成派と反対派が争うことになるのだが、日本では、「受精卵は生命の芽」であるとした。生命そのものではない、生命となりうるものであり、生命ほどの重みはないとの解釈である。だから、日本では、中絶は比較的自由に行われている。戦後の優生保護法の立法に伴い、既に子供のいる既婚者が進んで中絶をした。現在でも、望まぬ妊娠は時期さえ間違えなければ中絶できる。日本の曖昧さが、良くも悪くも、戦後のベビーブームを中断したのは歴史的事実である。
 赤林先生は、生命倫理から敷衍して日本社会を語った。白鳳がかつてレフリー(行司)に土俵下でクレームをつけたのは「横綱の風格を汚す」としてすぐさま取り下げざるを得なくなった。欧米では、スポーツマンがレフリーにクレームをつけるのは当然の権利だ。日本の対応は理解されなかった。風格という曖昧なものによって世界のスポーツルールをも変えてしまう。
 今、ロシア侵攻、コロナ禍、世界の経済回復競争の中において、日本は曖昧でシロクロをつけられない立場を通してきた。ロシア・ウクライナは、米国がつけたシロクロに盲従し、コロナはずるずると2類相当の重篤な疾病として世界に稀な対応を続け、経済回復はお隣中国次第になっている。
 言うまでもない、日本の政治の曖昧さが全ての禍をもたらしている。公文書での証拠が厳然として存在しているのに、元総務大臣のクビも取れない野党も曖昧さの責任を負う。施政者は、生命倫理を学習し、政治の曖昧さを払拭する働きをしてみせよ。日本の没落を食い止めるために。

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