日々雑感

相模原殺傷事件

 昨日、一通のメールが入った。「大泉さん、障害者の感動ポルノという言葉を知っていますか」。調べると、オーストラリアのジャーナリストで自らも障害を持つステラ・ヤングさん(故人)が「障害者を称賛するのはむしろ障害者を下に見て自らを慰める意図を感じる」と主張したことに始まる。いわば優生思想が深層心理で働き、障害者を見世物の如く扱い、人々に感動を起こさせるのが感動ポルノである。
 深くため息をついた。近年最悪の事件にランクされるであろう7月の相模原殺傷事件につながる言葉だ。この事件で、優生思想、犯人の精神障害、措置入院制度、障害保健福祉事業の在り方など、難題数多あるパンドラの箱は開けられた。
 1977年、私は厚生省公衆衛生局精神衛生課の法令係長だった。そのころの精神衛生法は改正を重ね、現在とは異なるが、世の中で事件が起こるたび、「措置入院を徹底して保安処分を行うべき」という議論が行われた。なぜなら、事件はなくならず、人の心に潜む優生思想も無くならないからである。
 厚生行政の中で、障害福祉は、高齢者福祉や児童福祉よりもはるかに難しい。高齢者や児童の問題は誰でも当事者となるので分かり易いのに対し、障害福祉は専門性が要求される。一般の行政マンが障害福祉に配属されると、仕事に行き詰まることが多い。感動ポルノも保安処分も、優生思想を背景とし、行政的解決が難しいからである。
 この流れを変えようと、ノーマライゼーションが障害福祉のキーワードになって久しい。かつては、浅野元宮城県知事のように、障害者のノーマイラーゼーションをライフワークとして取り組んだ政治家もいた。ノーマライゼーションこそがステラ・ヤングさんの望むところであった。だが、話は再び原点に戻るが、ノーマライゼーションを阻むのは、またしても人の心の中にある優生思想だということだ。これをどう払拭するのか。
 障害保健福祉事業の難しさを表すように、障害者自立支援の政策と立法は20年近くももめてきた。にも拘らず障害保健福祉は必ずしも最重要の行政課題となってはいない。一つだけ提案がある。障害保健福祉事業は感動ポルノに陥らぬように、専門性の高い事業者に行わせるべきである。誰が行ってもいいという現在の方法は見直さねばならない。また、厚労省や自治体にも十分な専門家を配置すべきである。障害保健福祉にこそ最も高い質の行政を求めねば、他の行政も期待できないとまで言いたい。

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