日々雑感

シンガポールの底力と日本

 過日、シム チュン・キャット昭和女子大教授のシンガポール教育制度についての講義を聴く機会を得た。東京23区ほどの広さで、人口6百万弱の国が、一人当たりGDP世界5位(23年 日本34位)、国際学力調査で世界一の座を獲得するシンガポールの底力はどこにあるのか、不作の30年を送ってきた日本にとって、大いに興味をそそられる。日本はかつて経済・教育指標において今のシンガポールの地位を占めていたことを考えると、下降原因を探るにも、シンガポールから学ばねばならない。
 シンガポールは、原則公教育の国であり、ナショナルカリキュラムの下で教育が施される。先ず、多民族国家であり、民族言語を教育に取り入れつつも、殆どの教科は英語で行われる。英国支配の国であったから、教師に事欠くことはなかったろう。その上で、義務教育6年を修了すると、大学進学予定コースと職業教育コースに振り分けられ、ドイツの制度が取り入れられている。
 職業教育コースでは中等教育の後、美容師、パテシェ、栄養士、保育士等の資格教育が公教育の下で行われる。大学コースも含め、どのコースも親の所得に応じ、日米などと比較すると授業料が低廉に押さえられている。コースの変更も成績によって可能であり、教育は複線化している。公教育によって、食いっぱくれる若者はいない制度である。
 翻って、日本の教育はどうか。高校はかつての農業、工業、商業などの職業教育が少なくなり、普通科が7割になって、結果的に6割の若者が大学に行く。教育制度は単線化している。そもそもは戦後の米占領政策によって六三三四制が創られ、その結果、旧制高等、帝大時代の教育年限を下回り、高等教育は低迷することになった。同時に、大学の大衆化が進み、偏差値による格差階層社会は結果的にできたものの、エリート教育はほぼなくなったと言える。一番の犠牲は研究力の低下だ。
 その大学は概念教育から脱しきれずキャリア教育に欠け、大衆大学に入るために受験に有利な私立勢の台頭もあって公教育は低迷するばかりである。各地教育委員会ごとの独自性は見られず、文科省の方針をなぞる教育、それはゆとり教育が行われたり廃止されたりのダッチロール政策と付き合っていく姿に表れている。
 シンガポールでは教員の給与レベルは極めて高い。校長は高学歴で高額所得者であり、教員の採用から予算の配分まで任されている。つまり、教育者であると同時に経営者としての質を保たねばならない。日本の文教政策では見られない体制だろう。教職が経済的にも社会的にも高い地位を得る職業であることは、日本でも採り入れるべきだ。
 低学力の子供には、教員の数を増やし、丁寧な教育が行われている。授業料は低く、子供は生まれ落ちたときから経済措置が行われ、塾に行く必要のない徹底した公教育を施しているという。しかし、全てがうまくいくわけではないだろう。両親が英語を十分に使えない家庭の子供は学力が低迷しがちであるし、精神を病む子供もいて、学力を誇るシンガポール教育にとって悩みの種である。
 筆者が20年ほど前、オーストラリア在住中に会ったシンガポール人は、エリート意識がプンプンする人も多かった。日本人は英語が下手で、大学院教育を受けていない場合が多いが、シンガポール人は上からの目線で見てしまう傾向がある。リークアンユーは開発独裁という手法で、一寒村を世界のエリート国に生まれ変わらせたが、そこにも問題が潜むことは否めない。しかし、それでもなお、日本の30年に渡る経済と教育の低迷を救うのは、シンガポール方式ではないかと筆者は思う。

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