真・善・美
昨日、ある科学者の会合で、プレゼンした著名な科学者がこう言った。「ノーベル賞を取るとか、偉業を成し遂げるとかのインセンティブだけでなく、真・善・美を意識した科学者がどれだけいるか」。
真・善・美とはプラトンが提唱した理想の要素。もとより哲学を深める機会を持たなかった私には、些か空々しい言葉として受け止めていた。この時の「あてはめ」では、真は科学、善は宗教、美は芸術なのだそうだ。
この定義を鵜呑みにして、行政マンと政治家の道を歩んできた自分を振り返ると、先ず科学の認識は科学者のそれとは大きく異なる。宇宙がダークマターで満ちていると言われても、実証も論証もできない者にとっては「信ずるしかない」であり、科学の理解はせいぜい「科学によって開発された技術」を享受し、理解するところに留まる。
善に該当するのが宗教であるとすれば、確かに、米大統領は皆「神の存在」を口にする。就任式では、聖書に誓って大統領になる。だが、日本人は、大方無宗教だ。では、善はどこから発するか。行政マン、政治家にとっては、そのバイブルが日本国憲法だ。25条に生存権を規定するから実現せねばならぬ。憲法の基本的価値は民主主義だから、法規も政策もその価値から生まれる。ただし、21世紀は民主主義に疑問符が付き始めている。世界の首領を選ぶ選挙で国家主義の台頭が認められる。これからも金科玉条の如く民主主義を振り回すことはできないのかもしれない。
美は芸術とすれば、ベートーベンが嫌いな人もいれば、前衛芸術は頭のおかしい人の作品と思う人もいる。つまり、個々人の捉え方に差があり、個人の趣向で何の弊害もないだろう。
プラトンが掲げた理想の3つの要素のうち、永遠かつ絶対なるものはない、ということか。少なくとも俗人にとっては、深い理解ではなく、日常のちょっとした喜びに3つの価値がかかわっていると言うにとどまる。頭が良すぎると悩むから、俗人のこの程度の考え方で生きるのが幸せなのだろう。