都知事失格?
舛添前都知事が辞任してからちょうど一年。蟄居謹慎していた舛添氏が「都知事失格舛添要一」を出版し、以来初めて口を開いた。実は、この本を買うのに少し苦労した。どこにでも売っているのかと思えば、都内のかなり大きな本屋でも置いていなかった。舛添ここまで落ちたり、と印象付けた。
筆者は、大学紛争時代、舛添氏等と「マックスウェーバー研究会」の自主ゼミで勉強した。眼光鋭い彼は、勉強に集中し、社交的ではなかった。本を読むスピードが速く、フランス語もドイツ語も身に着けた語学の天才でもあった。大学の本屋で、いつも本を漁っていた。
30年も経ってから、私が山口県副知事の時に、当時テレビの寵児だった舛添さんにシンポジウムに参加してもらった。残念ながら、彼は私を覚えていないと言った。「ほら、Sさんと一緒の研究会で」「ああ、あの美人のSさんね」。美人は覚えていたらしい。
彼の本によれば、舛添知事はマスコミに引きずりおろされた。背後には石原派・猪瀬派なども蠢いていた。しかし、右から左までこぞってのバッシングは、政治的意味よりも、バッシングのためのバッシングになっていった。私は、彼の言うことはそんなに間違っていないと思う。「贅沢だ」「セコイ」は彼の人格に対する攻撃であって、政治色は薄かった。つまり、彼は嫌われたのだ。
我が出身の厚労省では、歴代の大臣で一番嫌われ者が長妻氏、次が舛添氏なのだそうだ。二人とも尊大だが、舛添氏の場合は一部の称讃者もいる。「頭がいい。理解が早い」。私自身も、学生時代、一度は志した研究者だったが、彼の姿を見て、とても叶わないと思った。そして役人の道へ変更したのだ。
だが、私は、勉強秀才は山というほど見てきた。彼らは、人の気持ちとずれていることは確かだ。いつもテーマを追いかけ、よもやま話や人の気持ちに寄り添うことに時間は費やさない。志をどう果たすか、そのことで頭はいっぱいなのだ。
舛添氏の本は誤解される可能性がある。彼は、東京都を世界の東京にしようと試みたのであって、手段に受け入れられないことがあっても、全体から見れば矮小の議論に過ぎないと書く。だが、人は、仕事で評価するのではなく、人柄で評価する。政治家はそうであってはならないのだが、哀しいかな、民主主義の限界は「自分と同じレベルの人間」を選ぶ基準を設けているところにある。
このことは、現在、菅官房長官が前川喜平前文科次官に反論するとき、全て人格攻撃であるのと同じだ。菅さんは既に議論には負けている。前川氏も週刊誌によれば勉強秀才だが、文部行政をライフワークに選び、世間を理解しようと行動し、堂々と時の総理と闘うところは、人間味もある偉丈夫だ。
日本の政治は21世紀になってポピュリズムが中心になった。エリートイズムは最も嫌われる。しかし、すべてその選択でいいか。満身創痍となった舛添氏や弁慶となって「行政という義経」をかばって矢面に立った前川氏の主張も聞き入れるだけの民主主義社会を望む。