捨て石
先日、民主党時代仲の良かった議員から連絡があり、民主党政権時代、内閣委員会で公務員改革を手掛けていた私に「今の内閣人事局は自民党の発想だよね」と照会があった。内閣人事局は公務員改革において、それまで各省ごとに行っていた幹部人事を内閣人事局に一括して任せるというもので、縦割り行政の弊害を排除するための「改革」とされた。この内閣人事局が前川喜平前事務次官の首を切ったことになる。
残念ながら、内閣人事局の案は民主党時代に既にあった。もっと言えば、民主党の案でもなくて、その前の自公政権時代に作られていたものがベースになっている。安倍政権になって公務員改革の法律は公布・施行された。これにより、21世紀に始まった官邸主導の政治が、官僚支配も官邸主導にすることによって、政官ともに各省の権力は失われた。安倍一強の体制はこれによっても整えられた。
件の議員は、内閣人事局の弊害を質疑しようと意図したと思うが、民主党時代に出来上がっていたものだから「天に唾」だ。安倍総理の答弁には「それは民主党政権時代にあったものじゃないですか」が多い。民進党は、足腰のぐらついていた民主党時代の「業績」と決別せず、曖昧に引きずっているから、安倍政権に叶わぬのだ。
内閣人事局によって首切られた例は前川さんだけではない。厚労省でも、次官確実と言われた幹部が、政治家に楯突いて首を切られている。このままだと霞が関幹部は茶坊主の集まりになる。否、既に茶坊主だらけだ。本来ならば文科省を挙げて前川前次官を応援し、役人の根性を見せてほしいものだが、政治家の前に委縮して「そんなメールありません」と答える。
つい先日、旧知の尊敬する方から「あなたは、田舎のおばさんだ。なんでもペラペラしゃべるから政治の世界ではダメなのだ」と言われたばかりだが、現在、私は失うものがないから、正直に言わせてもらいたい。「田舎のおばさん」の真意は、抑圧された本音を仲間内にとどめておけばいいのに、仲間内に受けるからと言って、大衆に向かってしゃべることと定義されよう。折角の御助言を頂いたものの、この欄では、田舎のおばさんを続けるつもりなのだ。
昨日、親しい友人から、「落選が多く、修羅場をいくつもくぐってきたのはあなたの財産」と慰められたが、政治はプロセスではなく結果だから、私は内心忸怩たる思いだ。話は飛躍してしまうが、私にとっては、落選は不妊治療に似たものがある。「なぜ子供が欲しいのか、他にも幸せはあるのでは?」と同じように、「なぜ政治家になりたいのか、他の方が向いているのでは?」と言われても、行政マンとして積み上げていけば、社会の方向を決める政治にたどり着くことは否めない。
昨年放映されたNHKの不妊治療がテーマの番組で、結局疲れて治療をどこかで打ち切る話が出た。そのとき、その一人が「私は、捨て石になって生きる」と言った言葉が視聴者の感動を生んだ。闘って、闘って、最後は捨て石になるとは、なかなか言えないものだ。普通なら社会への憎しみ、運命への怨みで一杯になってしまう。田舎のおばさんである私は、「捨て石」という言葉と共に、今後生きていくつもりだ。