下町の台頭と東京
昨日、関係団体のイベントで赤羽に赴いた。赤羽駅に降りることは滅多にない。かつて闇市があり、下町風情の赤羽は、今は、明るく親しみの湧く庶民の街を醸し出している。駅前のアーケード商店街に「魚屋さん」を見つけて、感動した。現在では、魚屋、肉屋、八百屋、果物屋などの単独の店はどこも見かけることが少なく、みなスーパーに吸収されているからだ。伝統の一角を残す象徴だ。
赤羽は、今では、埼京線、京浜東北線、地下鉄南北線が乗り入れ、交通の便も一段とよくなった。思うに、各線の乗り入れなどが影響して、東京の繁栄衰退の傾向に変化をもたらしている。山の手では、新宿は今もダントツだが、渋谷は通り過ぎるだけの駅になり、下町では、北千住、秋葉原は乗り入れ線の増加で乗降客が増え続けている。つまり、簡単に言うと、東京の主導権は山の手から下町に移りつつあるのだ。
山の手と下町を比較した、かつてのエピソードは、高見順の小説「如何なる星の下に」の映画上映で、その貧乏物語に山の手の人は笑い、下町の人は泣いたということで知られる。山の手はホワイトカラー、下町はブルーカラーの街だった。しかし、今、若い人が下町に集まる。ここ赤羽も朝から飲むノンベエ爺さんの街だったのが、若い女性が飲みに来る街になったと言う。料金が安いからだ。
相対的に所得が高く学歴の高い、威張った「かつての山の手」の人々は、高度経済成長期以降、世田谷や多摩など西へ西へと向かって移り住み、先発集団はほぼ死に絶え、二世と後発集団が老後に入っている。多摩ニュータウンなども一斉に老人の街となり、東京の西では、第二第三の高島平、つまりゴーストタウンがあちこちにできている。地方都市のシャッター通りに該当するものだ。
下町は、山の手と違い、先祖代々住む人が多く、サラリーマンよりも自営の街だった。だから、鉄道の乗り入れの便を得て、わが町の活性化に力を入れたと思われる。江東区では、お祭りが大変活況だと言う。一つには、インド人などIT会社に勤める外国人が増え、また、比較的廉価の若い人向けのマンションが続々と立ったことが原因である。かつては、ゼロメートル地帯と言われ、台風の害に悩まされた地域だが、発展の先頭に立っている。
筆者は、行政マンとして政治家として国政ばかり考えてきた。しかし、いつの間にか生まれ育った東京が地域ごとに変遷を遂げていることに、最近意識をするようになった。新宿に生まれ、渋谷で青春を過ごし、霞が関で働き、赤坂で飲み歩いた人生だが、渋谷は汚れ、赤坂は廃れた。霞が関も強引な政治主導と官僚志望の低迷で地盤沈下した。唯一、戦後の昭和二十年代からそのアイデンティティを失わないのは、エネルギーと猥雑さの溢れる街新宿だ。
新宿が栄え続けられたのは、都庁が有楽町から此処へ移転してきたこともある。その都庁のトップはいつも都の外から来た。アメリカが優秀な移民ユダヤ人を使いこなせているように、東京が地方と違うのは、外から来た者を活用する能力であろう。まさにそれが東京パワーだ。誰もかなわない東京を愛す。