日々雑感

女平等社会のイノベーション

   憲法14条、24条が男女平等を制定してから70年である。憲法と同時に民法改正、教育基本法及び労働基準法が男女平等の趣旨を戴して制定された。このうち、労働基準法だけは女子労働保護の規定とのバランスで男女平等の条文を入れることができなかったので、国連の女子差別撤廃条約の批准のため、1985年、男女雇用機会均等法がつくられ、遅ればせながら、家庭、教育と並んで、労働分野でも一応の男女平等の制度が整った。
 社会には成り立ちというものがあるために、家庭でも、教育でも、制度が変わった後、真に平等となるには時間が必要であったし、今も完全に平等とは言えない。それでも、大学進学率ひとつとっても、女子は男子に比べ遜色ない状況にあり、戦後70年かけて。女性の生き方は極めて自由になったことは誰も否定しないであろう。
 ところが、女性にとって結婚は生きていくのに不可欠ではなくなり、子供を持つことも必然ではなくなったため、出生率が劇的と言えるほどに落ち、人口減少社会を我々は経験している。これも男女平等の政策の成果あるいは結果であろう。
 内閣府が出す男女共同参画白書は、失礼ながら、毎年同じ金太郎飴のような内容であり、そろそろ新たな目標、目指す新たな社会を明らかにしなければならない時が来た。旧労働省が男女雇用機会均等法を制定して大きな仕事を終えた後、1994年、総理府(現・内閣府)に男女共同参画社会推進本部(本部長は総理大臣)ができ、主導権は労働省から総理府に移った。それまでの男女平等から、新たに男女共同参画という言葉に移ったのも、この時だ。
 1999年に制定された男女共同参画社会基本法第2条によれば、男女共同参画社会とは、「(前略)男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、ともに責任を担うべき社会」をいう。この文言には、草の根の感覚は感じられないし、男女で成る社会の上部構造の在り方だけを決めたように思える。エリート女性を生み出すための趣旨ではないかと誤解される可能性もある。
 この言葉が生み出された1990年代は、男女平等政策が右上がりの時代で、総理府が力を入れた仕事は、女性初の○○を作ることだった。現に、女性政治家が育っていないため、民間から女性の大臣を抜擢したり、防衛、警察などの分野に女性の採用を進めた。なりほど、それこそが男女共同「参画」なのだと初めて言葉の意味が分かった次第である。
 それは、一定の成果を上げたかもしれないが、民間はついてこなかった。利潤追求が企業の目的であれば、営業能力に関わりなく女性をトップにつけるわけにはいかない。せいぜい永田町や霞が関でしか通用しない政策なのだ。
 地方もまた、男女共同参画社会基本法の後に条例をつくるように促されたが、都道府県条例の後、市町村は、中央とは異なる趣旨の内容を定めた。「男らしく女らしく生きるための条例」だ。中央のエリート役人と田舎の温度差を明確に知らしめることになった。これに対して、内閣府は「地方のことは地方の議会が決めればよい」との国会答弁を以て応えた。バックラッシュの始まりである。以後、今日まで、男女共同参画の政策は下降線をたどっている。
 社会にあって男女平等の論客だった上野千鶴子さん等学者は、このテーマよりも高齢者にテーマを移すなどして、論壇も盛り上がらない。それもそのはず、もう女性初の○○作り政策は、古い手法で多くの人の関心を引かないのだ。若い女性はソッポを向いて、保守化し、内閣府が忌避してきた専業主婦志向も出現している。
 リーダー不在のこの分野で、今なすべきことは、女性自らの発想で、少子高齢社会を解決する男女平等の在り方を問い、政策哲学を構築していくことだ。女性初の○○よりも、女性の多い職場で、例えば保育や介護の職場で女性に十分な報酬がもたらし、誇りを持って仕事ができるようにすることだ。ウーマンリブの始まりは性の解放だったが、それは行き過ぎたから、むしろ「お母さん」となる夢と誇りを肯定することだ。
 そして、女性の言う「ガラスの天井」は一種の甘えと見るべきだ。天井はいつも見えている。自分の能力の限界、競争社会の常、ひいては職業モラルを身に着けているかどうか、それらを知ることによって、ガラスの天井なるものにぶつかることはない。
 男女共同参画という名の政策は既に古い。憲法の両性の平等、つまり、男女平等の文言に立ち返って、新たな男女平等社会を構築すべきだ。男女平等社会のイノベーションに、私も臨む。

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