アタッチメント
最近、東大の遠藤利彦教授の話を聞く機会を得た。遠藤教授は、教育学、発達心理学が専門である。筆者は、ここ数年、児童関係の会議で、発達心理学の専門家の話を聞くことが多くなった。もとより、児童福祉行政に携わっていたものの、子供の内面について多くを知らなかった。
発達心理学の教えるところは、9歳10歳の壁(子供が社会性、道徳性の芽を持つ時期)のように、常識で納得できる現象を実験データで確認するのである。遠藤教授のテーマはアタッチメント(近い翻訳は愛着)であるが、子供は、すがりつく愛着あってこそ、健全な成長を遂げると結論を導く。
スヌーピーの漫画に出てくる哲学少年ライナスはいつも片手に毛布を持ち、毛布の存在が彼に安心を与えている。毛布は、彼のアタッチメントである。遠藤教授によると、多くの子供はアタッチメントを持ち、成長するにつれ、それを手放す。特別なものがなくても安心感を得られるようになるからである。ただし、2割くらいの子供は、いくつになっても、ぼろぼろになった縫いぐるみ等を手放せない。
大人になっても、これに近い性癖を持つ人は相当いる。植木鉢に石を3個投げ入れてからでなければ講義を始められない教授、階段を右足から登らなければ、やり直すと言う人、これは、いささか病的ではないかと思われる。
ライナスの安心毛布は何かを象徴している。親の愛情だろう。自分が愛されている、いつも身近にいて、自分を肯定してくれる人がいる。だから、赤子は、やがて、集団に入り、大人になっていく。アタッチメントとは心の栄養と置き換えられよう。
アタッチメントに欠いた子供は心身ともに成長が遅れる。背は伸びない、年齢相応の反応をしない。やがて、そのハンディを負ったまま、大人になる。発達心理学において科学的に実証された、このことは、1996年、筆者が厚生省児童家庭局企画課長の時をいやでも思い起こさせる。
児童福祉法の改正に臨んでいた筆者は、乳児院をなくしたいと考えていた。乳児は原則1歳まで、ただし2歳までは法律上入所可能で、発達が悪いとの理由で事実上4歳まで過ごす子供が多かった。栄養士による食事を十分摂っているにもかかわらず、成長が遅いのだ。ほとんどの時間をベビーベッドで寝かされ、一人一人の要求にこたえられるうような体制は取られていない。まさにアタッチメントに欠いた状況であった。
結局、筆者の思いは成し遂げられなかったが、現在、厚労省は里親制度に力を入れ始めている(顕著な成果は見えないが)。乳児こそは、身近に、いつも変わらぬアタッチメントを与えてくれる人が必要である。母親とは限らない。安心毛布に当たる人が必要だ。
少子社会の問題は、結婚しない、子供を持たない傾向を憂えるだけではない。子供を持つに至った人々も周囲の同世代未婚集団の影響を受け、育児を積極的に行うインセンティブに欠ける親が存在する。その氷山の一角が、最近の乳幼児虐待事件である。泣き止まないと床にたたきつけたり、十分な栄養を与えないなどで、いたいけな命が奪われてる。
その親たちも自分の親からアタッチメントを得てないのではないか。その親たちを先に抱きしめてやるおじいさん、おばあさん、社会が必要なのではないか。アタッチメントを政策化するのは難しい。しかし、社会の安定は、経済政策、安全保障以上に、アタッチメントの最後の砦、家庭を作ることを容易にする政策はできるだろう。なぜそこに思い及ばないのか。閨閥アタッチメントの強いきずなを持った政治家が、アタッチメント失ったばらばらの庶民を支配しているのが、無策の時代日本の現状である。