真の問題は何? 日本学術会議
日本学術会議の会員候補6人を任命拒否したことが問題となっている。マスコミは自らの表現の自由につながる学問の自由を蹂躙したとして、菅総理を責める側に立つ。
橋下徹氏が任命拒否反対の女性論者を相手に、テレビで持論を放ったが、極めて論理的で正しい。政府の機関である以上任命権者にはそもそも拒否権は備わっているとの論点である。女性論者はこの論点に適切な反論ができなかった。
橋下氏は法律の実務家であり、緻密な言語を駆使して正論を言うのだから、一般論で対抗するのは無理なのだ。マスコミもまた専門性を欠き、人々に受ける一般論をばらまくので、議論の盲点を作り出すだけだ。日韓関係など外交においては甚だしく盲点を作っている。
しかし、いかにその論点だけが正しくとも、それ以上の問題がある。日本の頭脳に喧嘩を売ってしまったのだ。しかも、菅総理の答弁姿勢は醜悪だ。「総合的俯瞰的」に決めたとは、なんと役人の文脈そのものではないか。答えを含まぬ答え方なのである。国会答弁文書で役人の好きな「前向きに対処することとするよう検討してまいりたい」のフレーズと同じだ。
菅総理は逃げた。憎い奴は任命したくないが、答弁言語は役人用語を使い(政治家たるものが使うべきではない)、暗にこれをやったのは役人なのだと言っている。なぜ、過去の解釈はどうあれ、任命権者の権利だ、どこが悪いと言下に突っぱねることができなかったのか。虎の尾を踏む勇気があるなら、そのくらいの覚悟がなければなるまい。
安倍内閣で安保については過去の政府の解釈を変えてきた実績があるではないか。また、悪いのは縦割り社会の官僚であって忖度が悪いのではないとばかり、行革に名を借りて役人バッシングをしていた割には、役人言語を使って彼らのせいにするのは如何?
しかし、これをきっかけに日本学術会議の在り方を見直すのはいいかもしれない。昔から、総理府(今の内閣府)には、誰も知らない機関が多くぶら下がっていて、そこには多くの職員が張り付いてきた。
そのひとつであった社会保障制度審議会は、2001年、省庁再編とともに廃止された。戦後1950年、社会保険を中心とする社会保障制度構築を総理に勧告するなど一定の仕事をしてきたが、その役割は経済財政諮問会議と厚労省社会保障審議会に継がれ、「省庁と同様に多すぎる審議会」は潰されたのである。
蓋し、橋本龍太郎元総理の省庁再編を始めとする行政改革は失敗だった。官僚の肥大を量的に抑制しようとしたが、桶をたらいに変えただけで、水の量を変えなかった。つまり人員は一人も減らず、ポストが減った分独り管理職が多くなり、自分は何をやっていいのか分らない役人が増えた。また、明らかに、官僚志望の学生はトップクラスにはいなくなった。政治の忖度の受け皿となる官僚人生に魅力を失ったからである。
日本学術会議の見直しをすると言うなら、同時に、官僚制度も見直す時が来た。来年、省庁再編から20年になるのだから。