政治の季節
東京五輪が近づいている。首都圏のコロナ感染が第5波を予期させる中で、政権は祈るような気持ちで開催に向かっているはずである。
確かに、選手選考の競技を見るだけでも、スポーツの美しさ、力強さに心惹かれ、人々は一時的にせよ前向きの日本を感じ取ることであろう。しかし、7割近くの世論が反対したのを押し切っての五輪開催であることは、政権が結果責任を負うということを認識しなければならない。
もともと秋口の総選挙のファンファーレとして五輪を考えていたに違いない政権だが、かろうじて事無きを得る可能性はあるものの、コロナに関して吉と出るか凶と出るかは今のところ分らない。問題は、政権が賭けに出て、その賭けたものは国民の健康であるということだ。
賭けに出る行為は、プロフェッショナリズムや科学の否定である。たとえ吉と出たとしても、真珠湾攻撃と同様、政府は国民の犠牲を前提にした決断をした。なぜそんな決断ができるのか。ひこばえ政治家と成り上がり者政治家が牛耳る政治だからである。プロフェッショナリズムも科学も存在しない。
今回の総選挙はファンファーレと野党の不甲斐なさだけで片付けてはならない。先のG7で、民主主義の価値を謳い、中国の独裁制に対し直截の警告を与えたのは、21世紀に米中覇権争いの下でイデオロギーが問われることを意味する。
日本は基本的人権と平和主義の憲法を擁し、明らかに米国と普遍的価値を共有する。そのイデオロギーの上に立って、対内外にいかなる政治を行うのかを発信していかねばならぬ。
日本は経済的にも、長い歴史の視点からも、アメリカよりも中国に近いかもしれない。しかし、中華人民共和国憲法は、法治国家としながらも、「中国共産党の指導の下で」統治されることが明言されている。すべての統治機構の上に共産党があるのだ。だから、三権分立によるチェックアンドバランスはない。
同様に、イラン・イスラム共和国憲法では、共和制としながらも、最高指導者はアッラーの意思に従う宗教者であって、行政府の長である大統領はその下に置かれる。ここにも三権分立はない。
民主主義、とりわけ、思想の自由と三権分立は、もしかすると広い世界においては絶対の価値ではないかもしれない。しかし、我々日本人は1947年に民主主義を選択しているのである。我々にとっては絶対価値だ。G7の一員として、日米同盟の片割れとして、日本は内政ばかりでなく外交においても、具体的にどんな民主主義を発信していくのか明確にすべきである。
ひこばえ政治家、成り上がり者政治家に問う。今回の総選挙でイデオロギーを明らかにせよ。国民の健康を賭けにした贖罪のひとつだ。