日々雑感

コロナ後の幸せとは

 岸田内閣の経済政策が閣議決定された。55兆7千億円は史上最大の規模である。子供への給付金、コロナで打撃を受けた中小企業への給付金が大きい。岸田首相の公約でもあり、経済回復への強い思いを数字に表したわけだが、マーケット(株式市場)の受けも評論家の受けも必ずしも良くはない。
 この時期、アメリカでも、バイデン大統領が1兆ドル(約113億円)の経済政策に署名した。第2弾はこれ以上の規模だが議会で承認されるかどうかはわからない。1兆ドルの中身は、高速道路の修繕などインフラ整備である。インフラ整備は雇用を生み、経済を回す。まさにニューディール政策を思い起こさせるが、ここが現金給付中心の日本との違いだ。
 総選挙は、岸田首相の「分配」へのかすかな期待と代替する能力が読めない野党の存在がこの国のコロナ後の方向を決めた。しかし、政治への不安、将来への不安、社会への不安は燻っている。
 金銭給付の経済効果は一定程度にとどまる。しかも、人々の様々の不安が貯蓄志向に向かい、GDPの半分を占める消費への刺激は小さいというのが大方の見方である。不安を抱えた人はお金を使わない、使えない。幸せでなければ消費しない、結婚しない、家庭を作らない。
 国として一人一人の幸せを積み上げ、社会としての幸せは何かを図らねば、財政規模の大きさで政策を作っても空振りに終わるかもしれない。
 筆者は、内田由紀子京大教授の幸福論を拝聴した。幸福という言葉には感情が入っているので、幸福を科学する場合にはウェルビーイングを使うべきだそうだが、ここでは幸福にしておく。個人の幸せ感と社会の在り方には相互作用があり、幸福文化というものができる。この幸福文化はアメリカと日本で異なる。
 理想に従い努力した結果手に入れたのが幸福であるというアメリカ型の獲得的幸福観。周りの人を配慮し、周囲と同じくらいなのが幸福であるという日本型の協調的幸福観。
 人は自分の状態は認識し、他人の状態も観察しているが、自分が社会にどう見られ影響を与えているかはわからない。しかし、多様性を認め、開放性を維持すれば、個人の主観的幸福とともに地域や社会への働きかけに向かう。これが内田教授のプロジェクト研究の成果である。弁を弄さずとも、この結論には納得がいく。
 コロナの状況下では、イベントや食事会などの集まりが極端に減らされ、人々が地域や社会に働きかける機会を失った。幸福は常に個人と地域とのバランスによって達成されるのであり、長期にわたる閉塞状況は人々を大きな不安に追いやったのである。内田教授によれば、不安に対する相談件数がコロナによって増えたそうだ。
 経済政策は日本回復の手段であるが、人々の幸せ感が伴わねばならない。単なる金銭給付でよいか。もらう人ともらわない人を分断し、社会全体への働きかけにはならない、つまり経済的乗数効果も低い。防災や上下水のインフラ整備で雇用を増やし、不安をなくすことも必要だ。イベントや人々の集まりに規制をかけず、コロナの飲み薬に大きな投資をして、コロナをインフルエンザ並みの扱いにいち早く移行すべきだ。
 日本人はアメリカ人と異なり、勝ち取る幸せよりも人並みの幸せを求める協調型人間集団だが、ならばこそ、人々が集う雇用やイベントに予算の配分を大きくすべきではないか。

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