日々雑感

幸福とは何か

 ロシアの侵攻により安寧の生活を追われたウクライナ人にとって、今は、日々の何気ない幸福の日々を取り戻すのに必死であろう。そんな中で、去る3月20日は国連の定めた国際幸福の日であったが、幸福のテーマで語る余裕は世界にない。それこそ足掛け3年居座る新型コロナすらも吹き飛ばす悪魔が忍び寄る日々だ。
 しかし、筆者は先月、関西で国際幸福の日を題に講演する機会を得たので、72歳にしてたどり着いた幸福の概念について述べることをご容赦いただきたい。2011年、ブータンのチンプーで行われた国連の会議に基づいて、翌年、国連総会全会一致で国際幸福の日の決議が採択された。2012年から国連関連団体により、毎年、幸福度ランキングが発表されている。
 日本は2021年度のランクが56位であり、先進国の中で低い。1位はフィンランドで、トップには北欧諸国が続き、13位ドイツ、17位イギリス、19位アメリカと主な先進国が続く。下の方はアフリカ諸国が並び、最下位の149位がアフガニスタンである。
 ランキングのための基準は、各国の幸福意識調査と客観的な数値から成り立つ。客観的数値とは、一人当たりGDP、社会保障制度、健康寿命、人生の自由度、他者への寛容さ、国への信頼度の6つである。言うまでもなく、日本は、社会保障制度や健康寿命の配点が高いのだが、人生の自由度と他者への寛容さで低く、全体として低いランクに甘んじている。また、2000年には世界2位だった一人当たりGDPは今や24位と決して高くはない。
 幸福の日のきっかけを作ったブータンは、2013年ではランキング8位で開発途上国として突出した地位にあったが、その後ランクを下げ続け、95位の後は調査対象から外れた。ブータンは日本でも一時「世界一幸せな国」とマスコミが取り上げたが、多くの人が観光に訪れるようになって、国民は経済も近代化も遅れている自国を認識するようになり、主観的な幸福意識が急落したせいだと言われている。国連のランキングに使われる主観的な意識調査はいかようにでも変わりうることの証左である。
 ならば、もっと客観的な幸福の基準はないのか。世界三大幸福論と言われるのは、英国の数学者バートランド・ラッセル、スイスの法学者カール・ヒルティ、フランスの哲学者アランの幸福哲学である。しかし、これらの高尚な幸福論は、日常的な幸福を求める庶民には必ずしも説得力がない。例えば、ラッセルの自由こそ幸福の最大の要素という議論は、戦禍に追われるウクライナ人にとって真実であろうが、極限状態にない多くの日本人には聞き流されてしまう。
 筆者は平均的な日本人の幸福の要素を考えてみた。3つある。一つは、情緒的な満足。これは主観そのものだが、日本人として共有する情緒があり、日々変わる意識調査とは異なる。二つ目は、経済社会的に恵まれること。三つめは、成功の数、失敗の数からくる満足。二つ目三つ目は論に及ばないと思われるので、以下に情緒について述べる。
 情緒は、子供の頃家庭で育まれる。中でも童話は幼児の心に生き方の種をまく。世界三大童話の中、イソップはギリシア民話をベースに、アリとキリギリスのように動物を使った教訓が多い(現代の子供はアリよりキリギリスの方が好きだ)。グリムはシンデレラなど、実は実母の虐待や育児放棄の欧州民話から来ているのだが、幼児用に実母を継母に替え、苦労の末にハピーエンドとなることを教示。アンデルセンは彼の創作で、裸の王様や醜いアヒルなど皮肉を含んだ教訓をもたらす。
 これらの教訓は繰り返し幼児の心に入っていく。ただし、三大童話では涙は出ない。心から感動し涙が出るのは、子供に読まれるオスカー・ワイルドの「幸福の王子」とベルギーの伝説を基にした「フランダースの犬」が圧巻である。死後街中の銅像になって初めて庶民の生活の苦しみを知った「幸福の王子」は身に着けた宝石や金箔をツバメを使って貧乏人に配った。最後は目のルビーを配り、盲目で丸裸になり冬が訪れてツバメとともに倒れる。自己犠牲を教える高度な哲学が子供心をとらえる。
 フランダースの犬は、貧乏な少年ネロが画家になりたい志を持ちつつ、コンクールに白墨で描いた絵を応募するが落選し、唯一人の祖父も牛乳売りの仕事も失い、放火の疑いまでかけられた。最後、クリスマスの夜に一度見たかった教会のベラスケスの絵が風で幕が落ちて目にし、生涯の友の犬パトラッシュと共にそのまま凍死する。志を果たすことは叶わなかったが、最後に一つの夢を実現して死ぬ。たとえ果たすことができなくても志を持って真摯に生きることを教える。
 幸福の第一要素である情緒は我々の心の中に住み、第二要素の経済的社会的活躍や、第三要素の成功失敗の数によって組み立てられる人生の真の幸福感をもたらすものと信じる。第二、第三要素は青壮年の時は重要でも、高齢期に入れば、圧倒的に第一要素の情緒的幸福が重要となる。
 わが身に立ち帰れば、職業人生には恵まれたが、選挙は敗北を重ねた。つまり、経済社会的には満足したが、選挙による失敗はその成果をも食いつぶした。しかし、自ら導いた幸福の基準からすれば、幸福の王子の自己犠牲、言い換えれば社会貢献のために政治を志し、ネロ少年のように志は遂げられなかったが、最後の一幅の絵を見る機会が残っている。それは、人口が増加に転じ、多くの豊かな情緒を持った子供たちの日本を感ずる絵である。それを見ることができれば至福である。

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