20世紀回帰はあり得ない
ウクライナ危機は依然泥沼にはまったままだ。領土拡張を目的とし、塹壕を掘って地上戦を戦い、核兵器の脅威をちらすかす等は、まさに20世紀の古いタイプの戦争を思い起こさせる。
この戦争とコロナの経験が世界のエネルギー政策を変えた。ロシアの石油と天然ガスを避けるために、火力と原子力が見直された。日本も例外ではない。他方で気候変動への取り組みを緩めるわけにはいかず、エネルギー政策は20世紀回帰の様相を呈してきた。
コロナ禍で、テレワークが可能ならば地方移住も可能と宣伝されたが、予想したほどではないにせよ、実行に移した人々もいる。家庭菜園を設け、里山保護の活動に参加し、子供が自然の中で遊び、貨幣経済から遠のいた生活が「微笑ましく」伝えられる。これこそ20世紀前半に回帰した生活だ。
しかし、戦争も政策も生活も、本当に20世紀回帰ができるのだろうか。筆者はかつて瀬戸内海にある日本一高齢な島を訪れたことがあり、唯一の高齢者施設では高齢者が歌も体操も参加しないのを見た。「そんな余力があるならば、最後までミカンもぎをやっている」と高齢者たちは言い、最後まで経済活動に参加する人生を送る。
また、インドで開発援助の仕事をしている頃、小さい子供は豆を茹でカレーをつくるが、おままごとはしない。実生活そのものを始めから行っているのである。近代化の進まない地域では、年寄りも子供も「生産者」であり、社会の重要なメンバーなのである。20世紀前半は日本国中がそうだった。
筆者は20世紀回帰が懐古趣味のように流行ることを危惧する。20世紀の生活の方が人間味があったと言わんばかりの、自然回帰、伝統回帰の志向は、宗教の原理主義に似て、進化論を許さない発想に至る。侵略戦争はしないという世界的合意を、地球温暖化に世界中が取り組むという合意を、近代化を以て幸福の指標とする歴史上の合意を無にすべきではない。
戦争には、国連を凌駕する新たな国際組織の抑制力を作り出し、エネルギー問題などは科学と技術に大規模な投資をして解決を求め、殆どの人間が近代化を享受できる経済社会を実現するのが、現代の今を生きる我々がすべきことだ。20世紀は反省の材料でしかなく、21世紀の新たなイノベーションを政策と学問に活かそう。
20世紀回帰など、とんでもない話である。