でも・しか総理
一昔前、「教師でもやろうか、教師しかないよ」という意味で「でも・しか教師」が流行ったことがある。就職が安易な時代でありながら、何がやりたいか心が決まらず、やむなく教員の道を選ぶ人を揶揄したものである。今や、教員は、非常勤から入ってようやく常勤になれる難関な就職であると同時に、ブラック企業並みの多忙な職場として忌避される職業になった。
多くの国会議員は「でも・しか議員」である。資格を取り、あるいは職業において切磋琢磨した上で、志を立てて議員になったのではない。「資格は取れない」「下積みはいやだ」という連中が、選挙で一発当てれば高給取りで名誉ある職業「国会議員」に就けるのだ。
彼らは政治塾、地方議員、国会議員秘書などを通じて、地盤、看板、カバンの三バンを身に着け専ら集票の仕方を学び選挙で勝ち抜く。世襲に至っては、三バンは初めから整っているので、親などが引退すれば直ぐにでも選挙に出て、大方は勝つ。
その彼らが議院内閣制であるから、内閣を構成する。失礼ながら、岸田総理も例外ではなく、政治家の家系に生まれたから「でも・しか総理」にまで上り詰めたのである。もともと強い政治の志があったとは思えない。新しい資本主義を今もって模索中でしかなく、富裕税を掲げながら不評に遭えばすぐに引っ込め、世論や支持率で小手先の政策だけを掲げる姿からは、志があったとは思えない。
国民は見抜いてしまった。3割しかない支持率は上がる気配はない。支持率を上げる常套手段の内閣改造ですら、国民は冷たい目で見た。何とも退屈な、退屈すぎる構成の内閣なのか総理自身が気付かなかったのは、所詮「でも・しか総理」でしかないからだ。政策と同様、ビジョンがない、消極的選択にまみれる「でも・しか」内閣なのだ。
女性閣僚を五人にしたが、三人は世襲議員。おまけに党役員人事に世襲の筆頭ドリル優子を入れた。女性を起用したつもりが真意は世襲擁護なのだ。一見女性に理解がありそうで、宏池会だからリベラルと思われそうだが、あに図らんや、彼は自分と同じ立場を守ることに必死なのだ。妻が専業主婦だから、扶養家族の年収の壁に対し補助金を出すという愚策を考えるのが「御身大切」総理の策だ。今や、専業主婦なんてのは政治家の妻くらいしかいない世の中なのに。
「でも・しか総理」は辞めてほしい。辞めても大丈夫だ。国民は岸田政権を否定しても自民党政権は否定しない。野党の面々を見れば、岸田総理以上に、御身大切、世襲擁護、ビジョン無しだ。「でも・しか野党」が存在するうちに、ビジョンある政治家を前面に出せ。