日々雑感

山口の星

 山口県第2区選出の平岡秀夫元代議士(民主党)が、政治生活に区切りをつけ、東京で弁護士活動を始めるという。2000年の初当選から民主党が惨敗した2012年まで、当選5回のうち4回を小選挙区で勝ち、保守の強い中国地方では稀有な存在だった。この間、法務大臣も務めた。
 平岡氏は大蔵省出身。今からほぼ30年前、大蔵省から在インド日本国大使館の一等書記官に出向した時、筆者も厚生省から国連児童基金(ユニセフ)のインド事務所計画評価官に出向し、知己となった。
 筆者が山口県副知事を務めていた時に、平岡氏は、退官して故郷の山口県岩国市に戻り、政治家を志した。2000年には、絶対にありえないと言われていた衆議院選挙での小選挙区当選を勝ち取ったのである。
 当時、知事の代理で自民党代議士の出陣パーティーに赴いた筆者は、多くの参加者から「実は、この後、平岡さんのパーティーに行く」と聞かされたので、もしかすると奇跡が起きるかもしれないと感じていたが、奇跡は起きた。政党に拘わらず、平岡氏は山口の星だったのだ。
 平岡氏は、県立岩国高校から東大法学部に進学、東大在学中に司法試験に合格し、公務員試験も抜群の成績で、卒業後は大蔵省に入省した。その秀才ぶりは有名で、大学を出たときには地元紙が既に自民党代議士の後継者とまで書いたそうだ。
 世襲の多い自民党から出馬することはできなかったが、地元の有権者は優れた人材に味方し、非自民の平岡氏を応援し続けた。しかし、2012年の民主党の惨敗以降は、さすがの平岡氏も民主党に否定的な情勢を覆すことはできなかった。2014年の捲土重来は果たせず、此度、政治に一応のピリオドを打った由である。
 筆者は山口県の国政選挙で2度敗れ、居住地の茨城県に選挙区を移す時に、民主党本部から笑われた。「山口、群馬、茨城は三大自民王国。その中の2か所で選挙をやるのですか」。2009年の追い風で当選はしたものの、その後は日の目を見ていない。
 それにしても、平岡氏の件は残念だ。政権交代までの民主党のさまざまの文書が平岡氏の手によって書かれ、党の実務を引っ張った。地元では、保守王国の非自民の星である平岡氏に凄まじい攻撃が加えられることもあった。
 平岡氏は総理になることを夢見たはずだ。もし、山口県に世襲の壁がなく、自民党に属していたら、それはあったかもしれない。もし、民主党がマニフェストに謙虚に対応し、政権を2期続けることができたら、それはあったかもしれない。
 政治の世界は過酷だ。秀才だから偉くなれるわけでもない。しかし、知識も職歴もない凡庸な人間が多く生き残っているのを見ると、自ら去ることを決めた俊才平岡氏が勿体なく思える。神は不公平だと思う。

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