日々雑感

死にもの狂いの人

 橋下徹大阪市長が一万余の僅差で敗れた「大阪都構想」住民投票の後行った記者会見は、多くの人が不思議な感覚に捉えられたのではないか。
 「民主主義はすばらしい」と橋下市長は言った。住民投票という直接民主主義の方法で敗れ、自らを政治家失格と言い放って、引退を表明した。勿論、法律家らしく、民主主義の方法である選挙に異を唱えるのではなく、こんな僅差でも「負けは負け」と引き下がったのである。
 国民は橋下市長の負けとは捉えていない。70歳以上の住民は「大阪市の名前が消える、シルバーパスが使えなくなる」などの理由で反対したかもしれないが、それより若い層は改革に期待したことが数字上明らかである。
 筆者は、厚生省現役時代、大阪府と大阪市の根強い競争意識が二重行政を生んでいることを痛感していた。横山ノックを知事にするだけの度量を持った大阪人ならば、大阪都構想を賛成するだろうと期待していた。
 対して、自民党府連の勝利会見は何とも締まりのない内容だった。だいたい反対の理由がお年寄り向けに「これまでのサービスが受けられなくなる」「将来どうなるか分からない」と不安を煽っただけで、確たる議論が見えてこなかった。しかも、会見に臨んだ顔ぶれは一様に渋い顔で、堂々とした橋下とは対照的だった。
 橋下市長は百パーセント引退だと豪語したが、待てよ、浅田真央選手は「フィフティ・フィフティ」から現役復帰を選んだばかりで、百も五十もあるいは橋下氏がかつて使った二万パーセントも単なる強調用語に過ぎない。強調用語は今の自分を抑え込むために使う言葉であり、抑えきれない心情と知性が将来、必ず吹き出してくるだろう。
 1990年代には、三重県、宮城県、鳥取県などで改革派知事が生まれ、政治に閉塞感のある人々に夢をもたらした。今、それは、ない。地方創生の柱は、国の査定基準に合わせて企画案を作り交付金をもらうことではない。自治体の独自性と新たな試みが柱とならねば、閉塞金太郎飴の日本は変わらないのだ。だから、今こそ、橋下徹ではないのか。
 かつて、橋下市長が、光市の殺人事件に関して彼を攻撃した朝日新聞の記者とのやり取りの中で「法律的に違法ではないと言われている私に、市民感覚を唄う朝日が違法と言う根拠を言え」と迫った。法律論に慣れていない記者は、有効な答えを発することはできなかった。
 橋下市長は民主主義を守る法律家であり、現制度を前提に改革を作り出す。もとより正論を吐いているのだ。あのテンポと法的三段論法についていけない人々がいるのもわかるが、ならば、この日本をどうするのだ。
 同じことが安倍首相にも言える。筆者は安保法制には反対だが、政治の姿勢としては、安倍首相は死にもの狂いだ。この十年近く、死にもの狂いの首相はいたのか。橋下市長の死にもの狂いは一目瞭然だ。
 地方から、死にもの狂いで、民主主義を守り、改革を望む為政者が続々出てこなければならない。筆者は、橋下氏の出番が再びある、と考える。

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