自民党の焦りと表現の自由
「出た~」と思った。お化けではない。自民党若手議員の勉強会による「安保法制に反対するマスコミを排除しよう」の意見が明るみに出たのである。外に向かって戦争のできるかつての日本に戻すだけではなく、言論統制するかつての日本も取り戻そうとの意図だ。自民党の「日本を取り戻す」のスローガンは、こういうことだったのか。
自民党の良識派である谷垣幹事長は勉強会を主催した自民党青年局長を処分したが、衣の下から鎧が見えてしまい、いよいよこれは危ない法律であることを吐露したようなものだ。
与党推薦学者の憲法審査会における違憲発言に続き、憲法学者230人の法案反対署名、それまで及び腰だったマスコミの取組みの積極化が自民党を慌てさせた。それが事もあろうに、憲法で保障する表現の自由を蹂躙しようとは呆れるではないか。憲法は為政者を縛るものだぞ。国政を与る資格に欠ける。
表現の自由に関しては、今、もう一つの出来事がある。1997年、サカキバラセイト事件を起こした元少年Aの出版である。大方の論調は、被害者の心情を配慮して出版差し止めにすべき、である。中には、読むだけでも悪だという意見もある。
かつて、小説家柳美里氏が書いた「石に泳ぐ魚」はモデルが特定され、名誉を傷つけられた原告と表現の自由を標榜する被告柳氏との間で訴訟になった。原告が勝訴したが、そこに描かれた原告の容貌に関する表現は、確かに人の心を打ちのめして止まないものだった。今回の出版も被害者は同じ思いであろう。
しかし、今回は、小説ではない。小説は一種の娯楽だが、今回は事実の陳述である。あの事件は一体何たっだのかという真実への探求心は誰でも持つ。初版10万部売れたのは、そういう観点からで、被害者への思いを失って書かれたものではない。
この本「絶歌」は、犯罪心理の描写としては一級の学術書になりうる。文学的表現は、とても現代の32歳の若者が著した書とは思えないほど、語彙が豊かで優れた筆致だ。ただ、そこには、緻密な心理描写とは裏腹に、著者が育つ過程で社会性が欠如していたことも読み取れる。
筆者も、ある人の著書の中で書かれた経験がある。もう30年近く前のことだ。「彼女の結婚に比べれば私は何と幸せな結婚をしたのだろう」とその人は書いた。彼女とは筆者のことで、文脈からは人物を特定することはできなかったが、当の本人にはピンときた。決していい気分ではなかったが、今回の本は、被害者の犠牲の上に立ったとはいえ、質的にはるかに凌駕する内容を持つ。心の闇に迫る筆裁きは、なぜ生きるかの問いに人々を誘うのである。
さて。賛否両論の「絶歌」出版の判断は読者にお任せするとして、自民党青年局の言論弾圧については是非もない。衣の下の鎧は、まさに戦争を意味する。この見え透いた意図を天下に曝すには、国民の知性と野党の戦略的応酬とが必要だ。いかんせん、今の野党では、無力で新たな政治の受け皿にはならない。国民の知性は漂流していくだろう。