日々雑感

国際関係論が書き換えられる日

 昨日、都内某所の勉強会で、改めて民主主義という価値の創出の歴史とキリスト教文化圏によって説明される「我々の世界」を辿った。民主主義の歴史にアジアは登場しない。
 国際関係の理論は、ツキュディデスとカントの古典から始まる。現代はモルゲンソーやウォルツが必須の教科書だ。10年余前、2度の国政選挙に敗れオーストラリア国立大学大学院で勉強していた頃、「中国の台頭は、国際関係論を塗り替えるだろう」と予言されていたが、果たして、何も変わっていない。
 孫子の兵法が必読書に挙げられることはないし、中国からその中華思想を覇権主義の理論として登場させる試みもない。だとすれば、国際関係論という学問は永遠に西洋史をベースにした世界の理解に終わるのか。既存の理論を当てはめて中国などを理解することになるのか。
 国際関係論の理論は自然科学に比べれば脆弱だ。いや、無いに等しい。月面着陸するのに、精査した計算を使い、理論値通りに到達させる。これに対して、社会科学の方法論は、データと数学を最も使う経済学でも、理論値が当たった例がない。つまり、理論とは言いつつ、定性的な評論に堕しているのだ。いわんや国際関係論においてをや、である。
 フランス革命やアメリカ独立戦争を経て、民主主義という価値を世界に広めてきた西洋史的発想によれば、アジアの世界は政治社会的に遅れている。しかし、現実の世界は、人口規模からみても、生産消費の規模からみても、アジアが主張する時代が訪れている。そのアジアが世界にものが言えないのは、もしかすると政治のせいばかりでなく、学問の勢力が弱いからではないか。日本も、自然科学でのノーベル賞は増えたが、世界を席巻する社会科学者は現れていない。
 戦前は東洋・アジアを勉強するのは右翼だったが、現在はアジアを強調するのは左翼になった。この現象は、学問の基盤の弱さを露呈しているにすぎないと思う。学問や理論を欠く政治は瓦解する。だから、我が国も「もっと学問を」。

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