メリル・ストリープの正体
アメリカの大女優メリル・ストリープが1月、ゴールデングローブ賞授賞式で行ったスピーチが話題になった。トランプ大統領を堂々と批判したからである。
メリルは、ヒラリー・クリントンの応援で、「アメリカ初の女性大統領」を渇望し、奇声も上げたくらい熱のこもった演説をしていた人だ。メリルは、その授賞式で、声が枯れていてごめんなさいと出てきて、トランプに嫌われているのは「ハリウッド、マスコミ、外国人」と言って、先ず人を笑わせた。
ハリウッドの役者は、外国からやって来て苦労した移民の出が多いと切り出し、トランプの差別主義を批判し、さらに、トランプが障害を持つ記者の真似をしたのを怒った。権力のトップがやることを良かれと思って多くの人が真似るであろうと言った。
最後は涙声になって終わらしたが、メリルの話が多くの共感を得たことも間違いない。これに対し、トランプ大統領は、「知りもしない記者の真似などするわけがない。メリルは過大評価された女優だ」と切り返した。
真実は何かをここで問題にしない。メリルという大女優がここまで権力に噛みつくこと自体がすごいことだ。アメリカの民主主義は健全だと言うことだろう。日本なら、「政治色がつくのは嫌だから、表には出さないで」という人が多いのとは大違いであろう。
メリルは確信の女優である。自らの意志でイェール大学院で演劇を学び、ロバート・デ・ニーロに見出され、1978年「ディアハンター」に起用された。翌79年には「クレーマー・クレーマー」で出て行った妻の役を見事に演じた。ちょうどアメリカがウーマンリブ一辺倒から、家族を大切にするスーパーウーマン時代に変わろうとするときの時宜を得た映画であった。
メリルは私より1歳年上だが、日本流に言えば学年は一緒の同世代。それまでの、ビビアン・リー、オードリー・ヘプバーン、エリザベス・テイラーなどの美人女優とは異なり、まさにこの時代から映画の中心となった「普通の人」の社会的問題を扱う内容にマッチした存在であった。その普通の人の役回りを自然に演じた。美人ではない、しかし、その中身は、今回のトランプ批判でよく分ったのは、リベラルかつ家族を大切にするウーマンリブを生きてきた人だと言うことだ。女優らしい奔放さはなく、初婚を大事にし、4人の子を育てた。
メリルは、2011年「マーガレット・サッチャー鉄の女の涙」でサッチャーを演じた。さすがにこれは「普通の女」の人生ではないが、普通の女に堕した認知症のサッチャーを生々しく演じた。メリルは過大評価どころか、役にはまり、渾身の演技をする大女優だ。決して美人ではないが、だからこそなのか、内側は、同世代の私には響くように伝わる「確信を持って生きるウーマンリブ」を感じてならない。