日々雑感

学歴で終わる社会

 最近、ひょんなことから、50年近く前に共に学んだ友人の現況を知ることになった。1968年、都立西高から東大に進んだ女子学生の中で、弁護士を開業していたり、国立大学の教員だったりの噂を聞いて、少しほっとした。時代を共有した友人が職業生活を遂げてきたことは誇らしく思う。女性の場合、苗字を変える人が多いので、今日までその存在は埋もれ、忘れていた。
 なぜ誇らしいか。1970年代、厚生省からアメリカに派遣されて見たアメリカの女性の社会進出への勢いは激烈だった。戦後与えられた男女平等の憲法の下で、日本女性にも頑張ってもらいたかったが、いかんせん、当時は親世代の価値観から抜け切れず、また、大量の団塊世代は、高度経済成長と甘い「恋愛流行歌」に乗って、安易な人生の選択に流れがちだった。だから、職業生活を全うした仲間がいたことを誇らしく思うのだ。私は、勉強で勝ち取る狭い世界しか知らないが、芸術やスポーツの世界で、突出した女性を見れば誇らしく思ってきたのも同じ理由だ。
 しかし、そんな私の思いは過去の遺物になりつつある。今の若者は、男女を問わず、小さい時から受験を予告され、受験に合わせた人生を送らされてきた経験を持つ。大学のブランドを勝ち取り、あるいは好むと好まざるとに拘わらず医学部に入学するなど、それをゴールに生きてきたきらいがある。学歴は職業生活の手段であるはずが、学歴がゴールだから、職業生活への憧れや実践技術の習得にはあまり関心を示さない。
 もちろん、それが全てではないにしても、最近会う若者に多いのが、立派な学歴なのに職業的に成功しようと思わない人々だ。その中では、女性は男性より「頑張る」と言われるが、欧米に比べガラスの天井が早く訪れるのも事実だ。我々の世代が自分の誇りのためにがむしゃらにガラスの天井を突き破ろうとした生き方は、「格好悪い」と思われているのだ。学校を出るだけではだめ、社会の下積みから這い上がりつつ、やがて社会に貢献していくべきと考える旧価値観は、若者に一笑に付される。
 思うに、学歴ブランドはもう意味がない。むしろ、大学などに行かなかった別のグループの方が期待をかけられる。それこそ、アップルCEOのステーィブ・ジョブズが、スタンフォード大学卒業式で行った有名な演説のように、「私は役に立たないと思った大学を6か月で辞めた。それが人生の選択で一番良かった」「人に言われた人生をやるのはもったいない、自分のために、飢えよ、馬鹿であり続けろ」。日本がイノベーション競争で勝つことができるのは、これしかないかもしれない。小さい時からの学歴ゴール社会を改める時が来た。

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