日々雑感

遊んで暮らす社会

昨日、留学生による弁論大会が某地方都市で行われた。毎年この大会に出席している私は、優勝者のウクライナ人のスピーチは特に優れていると思った。日本の過労死と「頑張りすぎる文化」について、ユーモアも交えながらきれいな日本語でスピーチした。
 優勝者は、頑張りすぎるのを褒めているわけではない。頑張り美学に無意識に溺れている日本人に警告をしている。日本人は「自分のやりたいこと」の実現のために職業を選ぶのではなく、有名企業等の集団に属することを選ぶ。それが間違いのもとではないかと示唆する。短い留学期間にこれだけの分析をしたのは、称讃に値しよう。
 大会後の懇親会で、私は、「人間が頑張りすぎないで済むAI(人工知能)社会」について話をしていたところ、「人間の仕事が奪われるから、AIを阻止する法律が必要だ」という意見に出くわした。先日、別の会合でも、「AIは情緒的な部分は人間を代替できない。人間の役割はある」という意見に出会った。実は、私は、そうは思わないのだ。
 既にほとんどの工場はロボットだけで生産しているし、将棋もチェスもAIにかなわない。人間は、殆どの労働から解放され、遊んで暮らすことを考えればよいのだ。これまで労働集約的と考えられてきた農業や介護もAIに任せ、人間は労働したとしても一日1時間、週に5時間働けばよい社会が来るかもしれない。
 「それでは生きる意味がない」と言う人も多い。しかし、労働のために労働をするのは正しいのか。あたかも、今の健康ブームが健康のために健康実践をしているのと同じだ。健康も、労働も、そして金も自分の本当にやりたいこと(これを遊びと考えよう)の実現のためにあるはずだ。
 産業革命時に、機械が自分たちの仕事を奪うからと、機械を壊すラッダイト運動が起きたが、むしろ機械のおかげで世の中の仕事は増えた。同様に、AIを発展させることにより、本当にやりたい遊びの時間は増えるのだ。AI社会を迎えて、自分の本当にやりたいことに向き合い、有名会社に属することや「みんなと同じ集団」に属することを目指す日本人の特質を捨ててみるのも面白い。
 優勝者のウクライナ人曰く、「ウクライナは厳しい政治情勢の中にあるからこそ、夫々が自己実現を意識するのだと思う」。借金大国、人口減少、格差拡大の日本は、ウクライナに比べ、まだまだぬるま湯なのかもしれない。有名な企業で、自己実現はないけれど、あくせく働くことに意義を見出している、日本こそ変わった国なのだ。

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