社会的養育のビジョン
厚労省社会保障審議会児童部会とは別に設けられた「新たな社会的養育の在り方に関する検討会」の報告書「新しい社会的養育ビジョン」は今年8月に公表された。その直後に、ある児童養護施設の理事長が、眉を潜めて報告書を私に渡した。
この分野は知っている人が少ないが、報告は、施設で暮らす子供をなるべく減らし、家庭で育つ環境に代えていくべきであるとの内容だ。端的には、里親制度を積極的に利用すべきであるとの見解を出している。なぜ理事長が眉をひそめたかと言えば、施設否定につながる可能性があるからだ。
「新たなビジョン」と書かれているが、実は、これは昔から何度も行われてきた議論で、「施設よりも家庭」が望ましいと結論しながら、施策に移すことはできないできた。現に、私自身が厚生省児童家庭局家庭福祉課長の時に、里親制度の活用と乳児院の縮小を考えたが、1997年の児童福祉法改正にのせることはできなかった。
児童福祉は、このテーマだけでなく、検討倒れの山のような分野なのだ。しかも、少子化政策優先の中で、社会的養護、要保護児童の問題が世間的な追い風を受けることは一度もなかった。せいぜい、児童が起こした猟奇的殺人事件の際に、先ずは教育、そして家庭教育の在り方が議論され、その議論もほどなく消失してしまうという経過をたどっている。
先日、この検討会の座長を務めた奥山真紀子先生(国立成育研究センター)の詳しいお話を聴く機会を得、要保護児童の世界で、日本が遅れていると指摘されてきた司法手続きの導入や家庭環境の整備に亀足ながら進むべき方向に向かっていることだけは認識できた。
アメリカでは、親が育てられない子供は、里親制度の下で育てれる。あるいは、日本で言えば、養子縁組をして、実子のように育てる。しかし、里親制度は「我が家は5-10歳の養育」というように、連続して成人まで育てる制度にはなっていない。また、有名映画監督の養女性的虐待などが報じられ、人間を預かる仕事の難しさは周知の事実である。決して里親制度が特段優れているとは言い難い。
日本の里親制度でも、私が改正を断念したのは、施設から子供を引きとった里親のすべてがうまくやれているわけではないからだ。「こんな難しい子は無理」と施設に返してくるケースや、子供自身が逃げてくるケースなども知って、たくさんの眼がある児童養護施設の方が相対的に受け入れやすいと思ったからだ。だが、その養護施設も、今は、極力、大舎制から、グループホームを付属させて小舎制に移行している。
普通の子供も、親は選べない。親は大なり小なり、子供の抑圧者として存在している。自分は普通の家庭と思っている人々も皆、グレーゾーンの養育環境を作っていることは否めないのだ。社会的許容範囲を超えたときに、社会的養護の必要性が問われるのだ。
程度の差として、社会的養護を必要とする子供がどれだけいるのか、実はわからない。子供の貧困についても、平均所得の中央値の半分の所帯に属する子供がそうだと言うなら、それは定義でしかなく、実数ではない。政策の方針は結構だが、対象の定量化ができなければ、施策にはならない。それが、いつも政策決定者の問題なのだ。
検討会の報告には、これまで児童福祉は専門性を要求されてきたので、都道府県レベルで行われてきたが、身近な市町村レベルで行うことを推奨している。高齢者については介護保険を始め、市町村主体の事業である。障害の分野も市町村に移行したものが多い。児童は保育所だけが市町村の役割だ。しかし、児童の権利、養育の在り方は、とみに専門性を必要とする。市町村の人材を養成しないまま、役割を押し付けることは逆効果を生む。
検討会報告が真実に施策に移していけるか興味を以て見守りたい。ただし、もう亀足の時代ではない。