恐るべし学術・教育軽視
日本学術会議の任命拒否問題は収まらない。そこへ安倍元総理の桜を見る会における虚偽発言が浮上し、菅総理の官房長時代の責任も問われている。菅総理の足元は既に崩れ始めた。
当初の「苦労人である令和おじさん」の好イメージは、周囲やマスコミの「答弁になっていない。分っていない」の論調や、海外からも「輝きがない」と伝えられるなど負のイメージに代わりつつある。従来から、突然の政権継承は好意的にみられることはないのが事実だ。宇野宗佑や森喜朗を思い起こせば、「まぐれで総理になった人」への風当たりは強い。
なぜまぐれは揶揄されるのか。その政治信条が測りかねるからである。かつて派閥争いの中にあった自民党政治では、派閥内で政策論を交わし、派閥の長は政治目的と識見を明らかにし、総理になる準備を十分整えてからその地位を得た。
だから、中曽根康弘や加藤紘一の書いた書は読むに値した。どんな政治が行われるか予想できたからである。しかるに、今は、出たとこ勝負、好き嫌い、枝葉末節がそのまま政治になっている。一体、疫病で荒廃しかけているこの国をどう立て直すのか、その中心の柱が見えてこない。否、ないのだ。
戦後の日本政治は、国際社会に復帰するための吉田茂外交や安保体制の確立をさせた岸信介の政治を除けば、おおむね、経済政策が最重要であった。直近の安倍総理も、憲法改正を強く望みながら、アベノミクス総理の名で終わった。
この国の基盤となる憲法や学術や教育まで政治の力を及ばせるには、経済政策が成功し、なお余力のある総理でなければできない。歴史的には、中曽根総理は、ロンヤスの日米外交、国鉄民営化の大事業に加え、戦争に行き身近の人間の死を経験した者の思いとして「戦後政治の総決算」を掲げた。(マッカーサーによって作られたと考える)憲法改正を主張した。
さすがの中曽根総理も自分の代で憲法改正までは難しいと感じていただろうが、憲法の精神を普及させる教育の改革を自分の本命とした。1984年に設置された臨時教育審議会(臨教審)で3年の議論の後、その成果は必ずしも中曽根が狙ったものにはならず、生涯教育や個性の重視という価値を確認した答申になった。したがって、これは中曽根総理の業績に挙げられていない。
しかし、このことを今思えば、森、安倍、現在の菅総理の衣の下から垣間見える「戦前回帰」を中曽根総理は潔しとしなかったと評価できる。戦友の死を悼みつつも大正デモクラシーに育った大正生まれの中曽根総理の人間性躍如である。
さて。3度目の補正予算を控え、政府の借金が膨大になる中、飲食業、アパレル業、旅行業などのコロナ打撃の大きい産業、非正規雇用や母子家庭などの社会的弱者の生活困苦が見えてきたが、経済政策は今だ明らかではない。菅総理は、新自由主義の竹中平蔵氏を「復活」させたが、この国難をどう乗り切るのか早く道標を掲げるべきである。
菅総理にとっても、まずは経済政策、それもコロナ対策との均衡をどうするかが一番の課題である。およそ憲法・学術・教育には、力及ぶまい。そんな中で、日本学術会議問題にみられる総理の学術、ひいては教育軽視は、日本の将来をますます暗闇に向かわせると信ずる。