日々雑感

政治家と人の命

 安倍元首相の国葬が終わった。運が悪いと言うか、エリザベス女王の荘厳な国葬の直後に行われた。賛否両論の中、盟友トランプも出席せず、目だった弔問外交は期待外れに終わった。それでも、菅前総理の弔辞が話題を呼び花を添えた。
 菅氏は自分を山縣有朋に擬し、安倍氏を伊藤博文に模した。しかし、これは意味深長である。山縣有朋は勲章と金に執着した総理大臣である。伊藤博文とは松下村塾の仲間であり、軍人であった。
 山縣が陸軍大輔のとき、御用商人山城屋和助が陸軍省の公金を使って疑獄事件を起こした。山城屋は奇兵隊で山縣の部下だった関係であり、山縣は失脚し、同時に山城屋は割腹自殺を遂げ、事件の真相はうやむやになった。山縣は伊藤博文暗殺後に総理になるが、決して評判の良い人物ではなかった。
 そもそも伊藤博文自身も明治維新前は殺人をしていて、松下村塾とは実はごろつき集団だったのである。高杉晋作の奇兵隊も、武士道もへったくれもない素行の悪い素人集団であった。明治以降の藩閥政治において、この事実は粉飾され美化されたのである。
 安倍氏は、生前、「政治家は、命を狙われるのは覚悟だ」と言っていたそうである。祖父岸信介も暴漢に襲われ重傷を負ったが、命には別状なかった。戦前の政治家は、確かに、凶刃に倒れた者が多く、命がけの政治であった。
 政治家が命がけならば、政治家に殺された人も多い。岸信介の安保改定反対デモで亡くなった樺美智子さんはその例だ。「人知れず微笑まん」の遺稿集で有名だが、岸信介に間接的に奪われた命であろう。安倍元首相に関しては、モリカケ事件で公文書改竄に苦しんだ職員が自殺した。
 もし、真実に安倍氏が最後に読んだ本が岡義武の「山縣有朋」だとすれば、なぜ今の時代に「長州バイブル」を読む必要があったのか。「御一新」だったのが後年「維新」に変えられ、歴史は美化された官軍の正当性へと作り上げられた。偽の錦の御旗で御一新を遂げた官軍の系譜、とりわけ長州政治は、学問を基礎に置かない足軽政治であり、松下村塾仲間を引き立てるネポティズム(縁故主義)そのものである。
 菅前総理は、弔事において無意識のうちに154年にわたる長州足軽政治に言及したことになる。学問の否定と縁故主義が浮かび上がる。・・・間違いなく、政治の潮目は変わるであろう。

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