父親の子育て文化
北欧は日本のはるか先を行く。1980年、コペンハーゲンでは、ミンクのコートを着た老人が街を出歩き消費者の代表であることを裏付けていた(当時の年金は高かった)。2006年、ストックホルムの街でベビーカーを押して歩くのは殆どが男性だった。
日本は、欧米型先進国になって久しいが、ジェンダーギャップは世界120位、男性の子育ては増えたとはいえ、どの調査を見ても、育児休業の取得率や家事分担率は極めて低い。これを嘆いても無駄だ。筆者は日本の男性の家事育児に関する認識は古来からの文化が作用していると思うからだ。
遠藤利彦東大大学院教授のお話を聞く機会を得、先生は、欧米の「男性も家事育児に参加すべき」という考えはweirdと言われると教えてくださった。この言葉は筆者が若い頃米国留学中によく聞いた言葉で「変な奴」「変よ」という文脈で使われていた。しかし、この言葉の語源は「運命」から来ていて、そもそも運命をつかさどるという意味だった。シェイクスピアが使ったという。
すなわち、男性の家事育児への関りは欧米文化の発想(運命)であって、いち早く先進国になった欧米文化を押し頂く国々としてはそれに追随することが当たり前とされているのである。現今、民主主義という欧米で発達した思想に疑問が抱かれているように、男性の家事育児参加が普遍的なものかと言えばそうではないことに気付く。
日本は古来、通婚社会で母系社会であった。したがって父親不在は当たり前の社会が長かったのだ。父親に家事育児を期待しない文化を形成してきた。ただし、遠藤先生は、戦後の欧米流の核家族化と専業主婦の登場で、父親の家事育児の必要性が高まり、日本独自の文化に抗しても社会が要求するようになったと諭す。また、江戸時代の文献などからは今よりも父親の子育ては一般的だったとの反証も挙げ、高度経済成長が極端にまで父親不在を一般化したと語る。
戦後の高度経済成長が作った徹底的な「男性不在の核家族」は、文化的背景にとらわれながら、男女共同参画も父親の子育て参加も抵抗し続け、おそらくは何十年経っても改善をみることはあるまい。むしろ、遠藤先生は、調査によれば、子育ての貢献度は、父親よりも、祖母、そして年長の子供の方が大きいと指摘する。
遠藤先生の研究は我々の一般的感覚と一致する。政策に反映させるならば、「祖母を使え」「兄弟姉妹をつくれ」ということになろう。子供は母親とは別のこうした存在を個別に受け止め大事にするという。必ずしも母親が圧倒していてほかの存在が小さいのではない。言い換えれば、複数のアタッチメントを以て成長していく。
兄弟姉妹の地位には保育士や学校教師も該当する。子供にとってケアギバーもアタッチメントの対象となり、成長を促す。それは、ともすれば父親の存在よりも大きい。父親が日本文化の殻を破れないのであれば、他のアタッチメントを増やせばいい。
この議論はフェミニストから攻撃されやすいが、しかし、父親や祖父の役割は青春期に大きいと思われる。人生の選択、歴史の理解、社会規範などは大いに関われる内容である。生物界でも、ライオンは餌をとるのも子育てするのも皆メスで、オスは群れの覇権争いや外部からの攻撃に立ち向かう。
今は亡き精神医学者の頼藤和寛が書いた本に「川に溺れた子供を、女性は自分の子なら助けるが、男性は他人の子でも助ける」とあった。女性は自分の子を守り、男性は種を守るのが宿命なのだという。フェミニストには腹立たしい議論かもしれないが、日本が欧米流weirdの基準に永遠に当てはまらないことは認めざるを得ない。